「夢を見てた。わたしは、あなたを知っている」映画「ドラえもん のび太の絵世界物語」個人的感想
2025.3.8.
映画「ドラえもん のび太の絵世界物語」を観てきた。
観終わったあと、興奮が止まらない。
傑作!大傑作!!
個人的には近年最高に面白かった。
久々に、こんなドラ映画で興奮した!
わさドラ以降の、オリジナル作品、最高傑作だと思う!
少なくとも、おれにとっては!
語ることが多すぎる。
「ここが最高だった」と、ネタバレ感想を書きたい!
…うん。だから書いた!
たぶん、こんなこと、おれしか思ってないかもしれない。
でも、きっとどこか、共感してもらえるかもしれない。
そんな感想です。
以下、長いです。でも、よかったら、ぜひ読んでみてほしいです。
一回しか観てないので、細かいことは違っているかもしれない。
それと、前提として、作品の面白さなんて、「全て主観でいい」と思っている。
作り手の意図より、観た人の主観。
近年YouTubeとかで流行っとるらしい「考察!監督の意図はこれ!」みたいな言い方は大嫌いだ。岡田斗司夫かよ。
感想は主観。
「おれにはこう感じられた!」
でいい。
だからもちろん、「ここが好き」も主観でいい。
「キャラ萌え」とか「声優がいい」とか「アクションこそ至高」とか「恋愛(カップリング)要素」とか、人それぞれ価値観、つまり好みってものがあるだろう。
おれの好みは、
「作品そのものがエンタメ映画として面白い上に、メタ的要素が比喩されている」
みたいな作品。
今回のドラ映画は、ドンズバだった。
全部書くと更にクソ長文になるので、「最高だったところ」以外の良かった点については以下、ピックアップする。
・オープニングが歌もアニメも最高。絵の中に入っていく!その楽しさ!
・細かい伏線までキチッと回収されていく気持ち良さ!
・ここはこうなるんだろな、と予想できちゃう点も「さらにそうくるか!」と上回ってくる展開の面白さ!
・アクションシーンのアニメがいい!ワクワクするしドキドキする!アニメが進化している力を十分活かしている。
・ギャグシーンがキチンと面白い!いい年こいて映画館で吹き出した。特にジャイアンからクレアへのパイルドライバー。
・ひみつ道具が楽しい!豊富に出てくる上に、使い方が上手い!一発で解決させてしまうホームラン級道具でなく、シングルヒット連発で打線をつないでいくような気持ちよさ!さすが「ひみつ道具博物館」の監督!王道ホームラン道具であるタイムマシン(※ドラえもんの)やどこでもドアすら出てこない!タイムマシンは名前だけ出てくるけどビジュアルはあえて出さない、そこに意志を感じる!
・でもタケコプターは、これぞひみつ道具代表だからか、むしろ印象強く使われる。やたら外れたりね。それがラスト「あの絵のドラえもんが出す道具」で出てくるからこそグッとくる。
・過去作のオマージュがそこかしこにありニヤリとさせられるが、あくまで今作の中で自然。上手い!
・TPぼんのアニメ化もあったし、TPキャラ出すのに、いいタイミング。
・のび太のパパがいい。原作でもいいキャラなんだよね実は。パパが画家を目指していた、という原作エピソードを知っていると、より震える。
・こども向け絵画指導の原則をきちんと押さえており矛盾がない。ここ素晴らしい!!(ここだけは俺、プロ目線)
・AIでいくらでも上手い絵が描けてしまう時代に「絵を描くとは、絵の良さとは」を真正面からテーマにしている。いい。
・やたらエモく泣かせようとする押し付けがましい感動ではなく、自然に感動する。
・キャラ愛偏重ではないキャラの描かれ方。故の自然な人間関係。大長編ならではのジャイアンのカッコよさも、良い塩梅!くどくない!
・しずかちゃんの描かれ方がいい。ヒロイン的でもなく愛玩的でもなく、かといって反動的に自立しすぎになるでもなく、「同い年の異性の友だち」として、のび太たち仲間の一員として、ナチュラルな描かれ方に思えた。
・怖い!敵も怖いし、ドラえもんさえ石化(的に)されてしまう怖さ。少しずつ絶望的状況になっていく演出の怖さ!上手い!色が消えていく=世界が壊れていく、この怖さ!さらに「アニメから色と動きが消える=アニメの死」というメタ的怖さも。アニメならではの演出とも言える。
そして「最高だった点」については、後述。そこ一番読んでほしいんだけども。
冷静な視点で、あえて「個人的にはイマイチだった点」を書くと…ほとんどが「もっと尺があれば描ける」ことで、制作側も「んなことわかっとるわい」って範囲のことだと思うけども!
自分なりに「こうだったら良かったな」も書いてみた。
・4年間、次元の狭間を放浪は無理があるのでは…?
→どこかの世界で保護されていた、とか?
・13世紀のヨーロッパにあった国が記録ごと無くなるのは無理があるのでは…?&最終的に滅びるのがわかってるのにのび太たちがそれを知って何もしないのも不自然?
→火山噴火直前に、絵世界に国ごと入り込むことで、滅びを防ぎつつ歴史改変も防ぎ、絵世界で静かに暮らせるように、ひみつ道具の力で現実の人々の記憶から消す。これはやってほしかった。
・ソドロがよく転ぶ演出の意味。後々ころばし屋が出てきたので、なにか伏線かと思ったけど違った。
→無くす。か、「また転ぶのか~!」みたいなネタにするくらいか。
・イゼールが、色の派手なものを狙うのは「自分が白黒で描かれており、色のない存在だったから」なんだろうけど(作中でも取り込んだものを自分の能力にする表現あり)、そのあたりは掘り下げないためわかりにくい。ソドロが最初に狙われたのも、「その場で一番派手な色だったから」も、実に上手くできているが、演出としては伝わりにくかった。そこを踏まえていれば、ラストの「最も派手な色の絵を!」がもっと活きたような気がする。
・同じく、クレアが流しそうめんやお風呂を嫌う理由も「絵世界の住人で水が苦手だから」だろうけど、わかりにくい。でも、本人がそれを自覚してると、イゼールの弱点もあらかじめわかってることになっちゃうからなぁ…
・棒読み…
→大人の事情だから仕方ない…「タイムパトロール隊のアンドロイド」みたいな設定にしとけば「だから棒読みなのね」とフォローになったかもな…
あと、「冒頭、工事現場でクレアがピンチになる、トムとジェリーみたいなシーンはいらないのでは?」と言われそうだけど、全ての演出には意図がある…とするなら、あれは物語の導入部のひとつとして「この映画は、ハードSFやリアル志向のものではなく、ご都合主義的シーンもドタバタアクションもある、こども向けアニメなんだよ」という世界線の提示だと思う。
以上に挙げた、良かった点は、きっと他の方も言っているだろうし、詳しくは語らない。
いや、語れるし語りたいけども!長いから我慢する!
★一番好きなところ★
オープニングのアニメで、歴史上の名画と並列の並びで「線画(マンガ)のドラえもん」が出てくる。これはつまり、「絵=マンガとしての原作ドラえもん」が名画たちと並ぶ絵であると感じられて、震えた。シビレた。
それに色がついてアニメーションのキャラクターが飛び出してくる。
「今から、この名作をアニメにした物語が始まるよ!」
そう雄弁に語るようなオープニング。完璧である。
でも、これは、言わば、ひとつの罠だった。
終盤、ずっと登場していたクレアは絵世界の住人だったことがわかる。
そして、「はいりこみライト」の故障と共に、その存在は消えていく。
(絵の世界に戻る、と言ってもいい。なお、「じゃあ、そのひみつ道具の仕様さえドラえもんが知っていれば、はいりこみライト壊すことでイゼールもすぐ消せたんじゃない?」というツッコミもできるが、それは結果論なので重要ではない)
観客は「チャイはともかく、クレアまで絵世界の存在だとは思っていなかった!」となり、突如訪れたその別れに、悲しみを感じるシーンでもある。
これ自体が、「禁断のメタファー」なのだ。
つまり。
観客である我々にとっても「ドラえもんたち全てが、絵世界の住人なのだ」ということの、暗喩。
素晴らしいオープニングが、まさに示したように…ドラえもん、は、絵世界の物語。
我々の現実では、ない。
私たちは、コミック誌や、劇場スクリーンを通じ、「はいりこみライト」の力を借りるかのように
その世界に入り込み、楽しみ、その世界を、キャラクター達を、愛してきた。
しかし、コミック誌の最終ページを閉じれば、劇場の照明が灯れば、絵世界とは、断絶してしまい、キャラクター達も、消えていく。
この絵世界物語、という作品は、ドラえもんそのものが、本来、絵世界物語であるために、そういうメタ構造を持たざるを得ない。
それに気づくとき、私たちは、克服することのできないさみしさ、切なさをもつことになる。
「この世界に、ドラえもんは、いないのだ」
その悲しみにいる観客を、しかし、作品は、悲しみの中に置いてけぼりには、しない。
まもなく、連れてこられる「絵世界の住人ではない本物・現実世界のクレア」。
物語の冒頭とラストにしか登場しない彼女は、笑顔で語るのだ。
(セリフはうろ覚えである)
「ううん、でも、私はあなたたちを知っている。夢を見ていたの。その夢の中で、たしかに私はあなたたちと一緒に冒険したのよ」
悲しみからの、なんという、救いだろう。
そう、私たちは、知っているのだ。彼らを。
「夢の中で、ドラえもんたちと、私たちは、いくらでも、共にあった」
私たち自身が、「ドラえもん」という、絵世界物語、その夢の中で。
これまでも、これから、ずっと。
この現実の地球には存在しなくても、絵世界物語の住人であるドラえもんたちと、夢を見るように、いくらでも、時間を、共に。
その、全肯定。
メタ構造にある、フィクションと現実に生きる我々が、「共にある」ことの、全肯定。
最高じゃないか。
ドラえもんという、多くの人にとって、幼少期からの思い入れのある作品だからこそ、それは、沁みいってくる。
なお、この映画を、冗談で「タイトル詐欺」と評した声を聞いた。
「絵世界物語ってタイトルなのに、ほとんど現実世界が舞台だったよね笑」
なるほど、言うことは確かだし、理解もできる。
おれは思う。
絵世界に戻っていったクレアがさみしくないように、と、マイロは絵を描き足す。
クレアの隣に、一緒に過ごした、のび太たちを。
そう、この映画は終わるけど、絵世界で始まるのだ。「のび太の絵世界物語」が。
終わりが、始まり。
むしろ完璧なタイトル、完璧なプロットじゃないか。
火山でアートリアが滅びても、絵世界の物語は、終わることがない、という救いでもある。
それは、藤子・F・不二雄先生が亡くなり、ドラえもんという作品が新たに生まれない時代が来たとしても、「その絵世界のキャラクター、物語は、永遠に終わることはない」というメタファーにもなっている。
私たちが思う限り、それを夢見ることができる。
そこでもう一度、あのオープニングに立ち返るのだ。
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心の中 いつもいつも 描いてる
夢をのせた自分だけの 世界地図
大人になったら 忘れちゃうのかな?
そんな時には 思い出してみよう
Shalalalala 僕の心に
いつまでも かがやく夢
ドラえもん そのポケットで かなえさせてね
大人になっても きっと忘れない
大切な思い いつまでもずっと
Shalalalala 歌をうたおう
みんなでさあ手をつないで
ドラえもん 世界中に 夢を そうあふれさせて
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「夢を見ていた、その中で私はあなたと共にいた」
クレアのセリフの続きが、そう、ここにも。
そう思いながら、またあのオープニングを見て、聴いたら、面白くて楽しくて、また、泣くだろう。
以上は、あくまでおれだけの主観。おれだけの個人的感想。
監督や脚本家はそんなこと、思ってもいないかもしれない。
でも、おれにはそう届いたのだ。
だから、これは、大人になってもドラえもんが大好きな、おれにとっての、大傑作。
素晴らしい映画を、素晴らしいドラえもんを、ありがとう。
この映画は、見どころが多すぎる。感じ入るところが多すぎる。
好きなところが、多すぎる。
ここまでの傑作だとは、想像以上の感動だった。
また観たいと思う。
何度も見ると、また違う良さを見つけそうだなと思う。
面白さ、素晴らしさが複層的になっていて、語りつくせぬくらいの、良さがある。
聞けば、脚本の伊藤公志さんという方は、映画ドラえもんの脚本は初だという。
「ファーストアルバムが最高傑作」という、ロック界でよく言われる言葉があるが、そういうことって、あるよね。今までの全部を、ここにブチ込むぞという気概!!
ドラえもんへの愛を、ドラえもんでやりたいことの全部を、ここでブチ込む!!
感じました。素晴らしかったです。
大満足です。
ここまで長文を読んでくれたあなたにも、ありがとうございました。
あー、また観たい。今すぐにでも!
テキトーに生きて、そして死ぬ
いつ頃かは覚えていないが、いつしかずっと、こう思うようになった。
「テキトーに生きて、死ねばいい」
「どう生きるべきか」「こう生きるべきだ」
絶えず考えていた時間が、僕にはあった。
あった、つまり、過去だ。
だけど、今は、思考停止した、というわけではなく
ただ、折り合いがつかなかった。
今ははっきり確信していて。
どんな人間も、どんな人生も、原則として前提として、「無価値」だ。
そもそも人間に限らず、モノだって、コトだって、無価値だ。
ずっと考えていた。ずっと考えても、
「何かには、価値がある」
としてしまうと、折り合いがつかなかった。
つまり、「若くして死ぬ命」に。
「こう生きるべき」なんてことがあるのなら
「これこそが価値」なんてものがあるのなら
生まれてすぐに死んでしまった赤ちゃんは、「べき」の外か。「価値」の外か。
おれにはとても、そうは思えなかった。
そうじゃない。
そもそも全部、価値なんて、ないのだ。
誰からも絶対的な、客観的な、価値なんて、なににもない。
大谷翔平だろうが、10兆ドルだろうが、世界平和だろうが、新薬開発だろうが、
なににも、価値はない。
ただ、誰かが見出すだけ。
価値は、見出すだけ。
それが、共有できるものだったり、できないものだったり、するだけ。
価値、は、私、が、見出している。
ただそれだけだし、それだけでいい。
私たちは集団で、社会で生きているから、もちろんルールは必要だ。
だから、ルールは決めればいい。その方がいい。
でも、それは価値を決めることではない。
この、「ルール」は、「通貨」や、「言葉」に置き換えてもいい。
価値は、私が、勝手に決めればいい。
そんで、たまに、誰かと共有できると、うれしい。
この価値は私が勝手に決めたものだ、と思えれば、誰構うことない、存分に、愛せる。
そして、他者が勝手に決めた他者の価値に、寛容になれる。
競争や比較もいらないのだから。
私のこどもですら、当然、私ではないから
僕が見出す価値に興味がないときも、当たり前にある。
僕とは違うものに価値を見出し、楽しむ。
子育ては、その前提に立って、ただ、提案し、そして願うだけ。
それを超えると、ただの、間違い。
「価値」の認識への、間違い。
私たちは、社会に、時間に、身体に、文化に、関係に
いつも、無意識にも、縛られて、生きる。そして、死ぬ。
それは、いいとか悪いとかではなく、生きるとは、そういうもの。
誰も、自由なんてものは得られないまま、
そんな、成り行きの中で、
「でも、こうだったらいいのにな」とか、
「あ、そうじゃなくてもいいのか」とか、
思ったり、気づいたり、思い出したりしながら
発信したり、行動したり、する。
自由は、いつまでも、ずっと、得られない、けど、感じる。
自由を、感じる。
価値を、見出して、自由を、感じて
そして、楽しい、と感じられれば
愛しい、とか、豊かだ、とか、面白い、とか感じられれば
幸せ、というものの実存は、どうもつかめないけれど
どうやら、幸せを感じている、そう思う。
思い込みで、全然かまわない。
感じるとか、思うとかは、もともと全部思い込みだし
ひとりでここに立ったとき、満足と自己満足は、同じ意味だぜ。
テキトーに生きて、じゅうぶん、いい。
そんで、死ねばいい。
自分がいいと思っていれば、いい。
こう生きるべきとか、これこそ価値とか、押し付けられると、反吐が出るぜ。
クソ食らえ。
テキトーに生きていたい。
大事なことだけ、大事にして。
もちろん、おれが勝手に決めた、おれにとっての、大事なことを。
じゅうぶんじゃないか。
あとは、できれば、できるだけ、運がいいと、ありがたいな。
運よく、生きて、そのうち、死ぬ。
じゃあ、そんときまで、よかったら、よろしくね。
あ、今度、酒でも呑もうか。
それとマンガかロックンロールの話する?
愛し愛されて生きるのさ(クリスマスイブを楽しく過ごすってことは)
スゲーどうでもいい話を書くぜ。
できれば読まないでもらいたい。
あなたの中でのおれの評価が落ちるからな!!
でも今、酔っぱらってるから勢いで書くとするぜ。
おれ流のサービスとして。
おれって、クリスマスイブって、なにしてたっけ?って考えてて。
最近は、イブに日本にいることがなかったから、なんかアジアのどっかでケーキ探して食ってたな、って記憶しかない。
じゃあ旅をする前、毎年、日本にいたころ何してたっけ、って思い出してたんですよ、今。
話それるけど、職業によって偏ったパブリックイメージがあるじゃない?
ああいうのはよくないよね、自分を自由じゃなくさせるから。期待に応えようとしないほうがいいよね。
今日さー福本伸行の「天」の最終巻を読んで泣いちゃったんだよね、また。だから余計に思うよお前も読め。
正直おれなんて酒も好きだし女の子も好きだしギャンブルも好きだしさー、およそ先生のイメージとか困る。
向上心とかないし、遊んでるだけだし、自由に楽しく生きたいなってことしか思ってない。
好きなものが好きなだけだし。
マンガとか音楽とか映画とか好きなんだよ。好きなものは好きだから楽しいからやるだけだよ。
それと変わらない温度でこどもが好きだから先生やってるだけだ。
たったそのことだけ信頼してくれたらいい。
他のものを求める人にはごめんねとしか言いようがない。
立派でもえらくも頭良くもないしテキトーでいいかげんなんだよ、これは本当に!
そんなおれだからさ…そう思って、ね。続きます。
イブの夜って、なんかこう日本だと恋人とかとセックスする日みたいなイメージあるじゃない。
でも思い返すと、そういう記憶がマジでほとんどない。
だって面白くねーじゃん。そんなことしても。ありきたりっつーかさ。
たぶんひねくれ者なんだと思う。
お前ら地球人と同じことなんかしてたまるか!みたいな。
そういえば大学生のときもバレンタインにパチンコ行って(※彼女いたのに)クソ負けしてあまり玉交換してもらうとき、カウンターのかわいい女の子が一瞬手に持ったチョコをもう一回戻して他のお菓子に変えてから渡されたことあったな。
あれは「今日は!!お前なんぞに!!チョコ!手渡してたまるか!」っつー強い意志を感じたな!そういうの好きだな!!!
まあいらん話はいいとして。ていうかこの投稿全部いらん話なんだけど。
で、思い出せる範囲でイブの夜に何したか…思い出せたのが
・友人とチョコパイ買いまくって袋入れて、サンタとトナカイのコスプレして、コンビニとか牛丼屋で働いてる店員さんに「イブの夜にお疲れ様!サンタからのクリスマスプレゼントだよ」って渡して回った(しかも結構な数の店舗)。
・「クリスマスのラブホってマジで混んでるのか調べて回ろう」つって友人と一緒にサンタとトナカイのコスプレして同性カップルのごとくラブホ回って調査しつつ、どのホテルも待合ブースで部屋空き待ちのカップルがいるのにびっくりしてそのまま一緒に待った。
・「去年さーイブのラブホってめっちゃ混んでたやん?じゃあラブホに入れないカップルが絶対いるわけじゃん?そういう人たちって車でいちゃつくんじゃねーか?」「じゃあ、中総(※中央総合公園。暗くて夜景がきれいで駐車できるスポットがあるため車内でアレするカップルの定番スポット)行こう」つって中総行ったら見事なくらい車ズラーっと並んでて窓ガラスが内側から曇ってる。その流れでなぜか忘れたけどその駐車してる車沿いをおれがTバックにスニーカーだけの格好でマラソンする羽目になった。
とまあ…そんな思い出なんですよ。
プレゼント渡して回ったときは割と感謝されたんだよね。すごい困惑された店もあったけど、すごい喜んでくれた人もいた。なんか、バカにする感じで回るんじゃなくて、マジで心からサンタやろうって決めて回ってたこと覚えてる。そこがYouTuberとかと違うところで。撮影とか一切してないしな!マジで喜ばれるお菓子って何だろうって話し合ってチョコパイにした記憶あるもん。うまい棒とかのふざけたチョイスじゃなくて予算的に可能な上限がチョコパイだった。
ラブホはまあ、勉強になった。だってめっちゃ夜に5組とか6組とか空きを待ってるんだよ!?何時になるかわからんじゃない!?そっから盛り上がれる!?でもそんな空気のフロント前にサンタとトナカイが恋人つなぎで入ってきて「今日、もう部屋いっぱいだね、入れないね。せっかく頑張ってプレゼント配り終わったのにね」とか満室表示のパネルの前で会話してるんだよ。サービス以外の何物でもないわ。会話の減ったカップルたちに笑いと話題を提供したと思うぞ。何の得があっておれはこんなことしてたんだイブに。サービスだよ。ありきたりの夜にならないように、カップルに。思い出をプレゼントして回ったんだよ。
あと12月下旬の深夜にTバック一丁で屋外マラソンしたことある人いる?
あれマジで肺が痛いから。肺が凍る感じする。息できないの。
あっ、ディオに気化冷凍法くらわされて呼吸ができずに波紋が練れなくなるジョナサン・ジョースターってこんな感じ!?って思ったから。
最近だとアレ、竈門炭治郎。1巻で禰豆子を背負って雪山を進むときの「息が苦しい 凍てついた空気で肺が痛い」あれな。
「前に進め もっと速く足を動かせ(Tバックで)」
で、全然、車のカップルには気づかれないの。そりゃもう内側から曇っとるからな、ガラスが!
あまりに気づかれないからフロント側に回ったりもしたんだけど全然ダメな。
もうおれがクソ寒いだけのイベントよ。気づかれたところで妖怪扱いされるだけだと思うけども。
で、しばらくマラソンして駐車してる車がなくなったら後ろから友人の車が来て拾ってもらえる予定だったんだけど、やっと来た友人の車がまぁまぁな速度でおれを追い抜いて走り去りやがったからな。あの恨み忘れねぇ。えっマジ?往復なの?今の往路だったの?駅伝かよ!駅伝は年始だろ!ってなったもん。
このまま放置されたら中総で凍死っつーか不審死するやんかと。Tバック一丁で。事件性帯びるわ。
結局友人の車がしばらくして戻ってきたから今おれはまだ生きてるわけだけど。クソ。あのハンドル持ってニヤついた顔忘れねーぞ。マスキお前だよ!
なんか書いてて改めて思うけど、なんていうか、あれだ、楽しかったな。
あなたの今夜が(こんなくだらねー投稿を読んでるくらいだからいろいろアレなんだと思うけども)この投稿で多少でも楽しいものになれたなら幸いです。
じゃ、Have a merry Christmas!
ロックが好きだ。
チャーリー・ワッツと俺。
小山田圭吾のこと。(たぶん、多くの人と違うってこと)
小山田圭吾のことを擁護するつもりはまったくない。マジでまったく。
辞意表明もしかるべきと思う。
ただ個人的に思うことは、たぶん、多くの人と、感じ方が違うんだな、ってことだ。
それだけだ。
例のインタビューは94年。
94年のあのころの感じ。
僕はよくわかる。
当時の「サブカル現役っ子」だったからだ。
あのクイックジャパン、「ほぼ」当時、読んだ。
でも、たぶん古本だな。
17か18歳くらいで読んだような気がする。
あのインタビューで、最悪だなこいつは、クズだな、って、当時、現役で、思った。
でもそのころのサブカルの一部の空気感は、それがいいとか悪いとかではなく
露悪的に、おれたちはクズだ、ということを共感しあう確かめあうような空気があったんだと思う。
それはもちろん、この世界のほんの狭いところの空気でしかなかったけれど。
バブルが崩壊して、なんだか世の中は希望を失い、浮かれた気分が冷めて、きな臭く、世紀末に向かって、なんだか退廃的だった時代。
そんな時代に、みんながそうだったかは知らないけれど、サブカルの世界の空気に、確かにそれはあったように思う。
「いい子みたいなふりするのはやめようぜ、おれたちってクズじゃんか、人間なんてクズじゃんか」
というような。
「おれもクズだよ、おまえもクズだろう?」
「いい人みたいに振舞ってるけど、おまえだって人を助けたりしないだろう?」
「おまえだって欲望にまみれて生きてるじゃないか?世界には苦しい人なんてたくさんいるのに、おまえは何してるわけ?」
「しょせん、おまえはクズだろう?」
「おまえの友達だって、親だって、恋人だって、結局、独善的な偽善者じゃないのか?そいつらも全員クズだろう?」
そういう問いかけが、いろいろなところにあったと思う。
それは、思春期のおれに、いつもいつでも刺さり、今だって抜けていない根源的なものだとすら思う。
そんな中で、人間のクズさを証明するような告白めいたものは、たくさんあったように思う。
鬼畜系だとか、村崎百郎だとか、根本敬だとか、ガロのマンガだとか・・・
(一緒くたにしてはいけないのかもしれないけれど、少なくとも、おれの心の中では近くにあった)
そういったものは、今はネットに沈んでいるのかもしれないが
当時、インターネット以前の時代、それはアングラ・サブカル雑誌の中にあった。
僕はたくさん読み漁った。
僕の中にある暗いもの、黒いもの、自分のクズみたいな「ある部分」、利己的な欲望、他者への残酷性、そういったもののことを知りたくて。もしくは、他者にもあることを確認したくて。
小山田圭吾のインタビュー、それはクズそのものだ。
そこにある「(笑)」も含めて、クズそのものだ。
だけどそれは、ただのいじめ自慢とかではなく
「おれなんてクズなんだよ」
という、若い魂の、告白のようにとらえていた。
「こういう行為はクズの行為だ。悪いに決まっている」
と知っていて、どう思われるかもわかってて、あえて露悪的に、読んだ人が最悪だと思うように、わざと「正直以上の悪意」を告白している、そんなように見えた。
「こんなオシャレな音楽とか言われて、ファッション雑誌とか載ってるけど
おれはクズの行いを繰り返してきたクズなんだよ」
と、隠さずに言いたいのではないか。
隠して生きることをしたくないのではないか。
あのころの空気感の中で、そうしたかったんじゃないか。そう思った。
チンポやウンコやゲロやケツの穴を、わざと見せたかった。
ロックやパンクが反抗の音楽だなんて言うけれど
体制や政治に対して反抗するものだと思っているのなら、それは多分、勘違いだ。
というか、認識の不足だ。
外側に向かう反発や反抗は、いつか必ず、自分に向かう。
内側に向かう。
「誰かを責めて反抗する、そんなてめえ自身はどうなんだ?」
自分自身の、人間ならほぼ全員、背負う原罪に向かうことになる。
自分の欲望に、残酷性に、そういうクズさに。
最終的に、自分の心に反抗を向けていく、問いかけを続ける、それがロックの魂の行き先だ。おれはそう思っている。
だから小山田の正直すぎる隠さないクズさは、吐き気を催すものだったが、その表現をそこでするということ自体、納得できないものではなかった。
それは、他者に対する問いかけでもあるからだ。
「こんな音楽を作っているおれは、こんなクズなんだ。どう思う?」
小山田圭吾ことコーネリアスの95年のアルバム「69/96」。
これのアナログ盤はジャケが違い、「ピンクの原作デビルマン」だ。
(ちなみに持ってる)
これだけで、わかるだろう。
「小山田圭吾が、わかってやっている人だということ」が。
少なくとも、原作デビルマンをちゃんと読んだ人なら、わかるはずだ。
彼の中に何がいるのか。
彼が(おそらく自分に)「悪魔」を見つめていたことが、想像できるはずだ。
(クイックジャパンの表紙で彼が持つマンガは「魔太郎」だ)
あのころの空気感の中で、多くのサブカルっ子が苦しみ、悩み、ゲロを吐いて見せあっこして
「どう生きたらいいのか」
を考えていた。
現実が地獄のようで、醜く、汚く、クズみたいだと知って
その上でどう生きるかを。
そんな中だから、原作版「風の谷のナウシカ」はああやって完結して、「新世紀エヴァンゲリオン」が生まれた。
ニルヴァーナは絶叫し、カート・コヴェインは自殺した。
(クイックジャパンや太田出版は、当時、最もすぐれた「エヴァンゲリオン」解析をしていたと思う)
そういう文化の、空気の流れを、現役で感じた自負がある。
もちろんそれは、個人的な、狭い田舎の、勘違いとか、思い込みもあったのだろうが、あながち全部が間違いじゃないと思う。
その文脈の中に、あのインタビューがあったのだ。
それを、今、あれだけを読んだ人にはわからないだろうな、と思う。
「感じ方が違うんだな」と思う。
ただ、それだけだけど。
あのインタビューだけ見たら、そりゃそういう反応になるし、実際、最悪なインタビューなんだから、まっとうな反応だ。
しかも、それから25年以上、小山田圭吾は、言葉で過去の発言を刷新してこなかった。
そのままで、小山田圭吾がパラリンピックの音楽なんて悪い冗談にしてもひどすぎる、受け付けない、それは当たり前の感覚だ。
辞めるしかない。それもわかる。ていうかそうだろ。当たり前だ。
(でも当時のごく狭いところの文脈を理解していればしているほど、問題の複雑さに何も言えない、他のミュージシャンの気持ちも想像できる気がする)
だいたい、上に述べたおれの思ったことなんて、実際にいじめ、いや暴力を受けた人間からしたらクソどうでもいいことだ。
そんなことどうでもいい。加害側の自己表現だのなんだの。クソどうでもいいわ。
一生忘れないし、一生を狂わされることだぞ。
小山田圭吾に擁護できる要素なんてねぇ。
ただおれは正直言って、今回、やっと少しだけ、すっきりした。
小山田圭吾が自分の言葉で述べたことで。
何も許せないし、何もかばえないし、クズの過去はクズのままだけど。
それでも、彼の謝罪文の
「そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います」
この言葉に真実味を感じた。
本当にどうなのかはわからないけど
おれの感じていた感じとは、符合した。
罪悪感を感じないほど鈍感じゃないはずだ。
小山田圭吾は全然好きじゃない、嫌いだ。
大嫌い憎い殺したいではないけどずっと心理的に距離がある。
ファンだなんて思わない。まったく思わない。
あのころから今までまったく変わらない。
でも彼の音楽をたまには聴くだろう。
フリッパーズギターを、コーネリアスを、METAFIVEを、「デザインあ」を。
そうして思うだろう、変わらずに「この音楽かっけえ」「好きだ」と。
そして変わらずに、おれはおれに問いかけるだろう。
おまえは本当にクズじゃないのか?
と。
おまえの過去は全部、正しかったか?
ユウシ、おまえは
いじめられた側、いじめた側、静観した側
どれだった?
「あの時」はどうだった?
「あの時」は?
じゃあ、「あの時」は?
「あいつ」に対しては?
そして「あんた」はどうなんだ?
いじめられた側だったか?
いじめた側だったか?
静観した側だったか?
そして、今は、どうなんだ?
SNSに、「ワタシ、弱いものの味方です」って書くだけなのは
ただの「静観」だぞ?
勘違いするなよ?
問いかけ続けて生きていく
コーネリアスがどうであろうと
小山田圭吾が謝罪しようと辞任しようと
大事なのはそんなことじゃないだろう。
「おれ」のことだし「あんた」のことだろう。
どう生きてくんだ?
それを、喉元にナイフ突きつけられて、改めて聞かれてる。
そういう意味じゃ、94年と、あまり変わらない。
今回のおれの「感じ方」は、そういうことだから
だから、多くの人と、感じ方が違うんだな、ってことだ。
あいにく、人を責めてりゃハッピーってほど、鈍感じゃないんでね。
妄想、日々に滲む
共感を求める文章でもなく、理解してほしいとも思わず、だからといって批判もされたくなく、ただ書かずにいられなかった。書かずにいられなくて書いちまったからここに置いておく。
正解とか不正解とかいう話ではなくて。価値観の話。
妄想。
目の前に明らかな超常現象として
「はい、制限時間は30秒です!
このスイッチを押すと、○○さんの命は助かります。
そのかわりあなたは即死します。
なお、あなたの行動は○○さんには伝わりませんし、他の誰も気づきません。
ただの変死です。では、カウントダウンスタート!」
みたいなことを言う超常的存在が現れたとして。
※「○○さん」は「リアルな死と直面している大切な友人」とする
おれ押しちゃうんじゃないか、と思うんだよね。
確固たる意志をもって押すとか覚悟を決めて押すとかとはたぶんちょっと違って
「押しちゃう」っていうくらいの表現がふさわしい感じで。つい、押しちゃった、みたいな。勢いでつい、みたいな。
たぶん短いなりにいろいろは考えると思う。
ああもっといろんな女の子と遊んでおけばよかったなとか一回でいいから叙々苑に行ってみたかったなぁとかDr.STONEの最終回読みたかったなぁとか変死だとハードディスク調べたりするかな恥ずかしいけど死んでるからまあいいかなとか。30秒以内じゃその程度だろうな、自分だと。
家族のことはもちろん頭に浮かぶけどあんまり深く考えないだろうと思う。残された家族が苦労するかもとかは。改めて考えなくても、きっと本人と周囲の素晴らしい人たちがなんとかしてくれるだろうという確信的楽観がある。生きてるんだから大丈夫だろう。仕事のことも同様。
30秒じゃなくてもっと長い時間悩めるんだとしたら、正直、自分がどう判断するかわからないけど、まあ結局最後は、まあいいか!!考えるのめんどくせー!つって「押しちゃう」気がする。
それと、「即死じゃなくて、物凄い拷問を受けて苦しみぬいて死ぬ」に条件変更されたら、押さないかもしれない。おれ、昔から、一番怖いのは「拷問」だと思い続けてた。今も思う。この世で一番怖いのは拷問。だから押さない、もしくは押せないかもしれない。
そう考えるからこそ「即死?即死でいいの?じゃあ!」つって押しちゃう気がするんだよな。逆にもう、それでいいなら押さなきゃ損じゃない?くらいの。そこまでではないか…
さらに勝手に他人を巻き込んで勝手に妄想して失礼だとは思うんだけど。
たとえば橋下徹とか。ホリエモンとか。西野亮廣とか。
なんらかの、頭の良いカリスマ的存在の方々。
押さないと思うんだよ。同条件で。
(いや、勝手な妄想だよ!?知らんよ実際は!彼らのことよく知らないしさ!会ったことも話したこともない人にそんな妄想するのは失礼だってのは当然わかってる。申し訳ない。ただ、その、例え話として仮定させてくれ)
で、それは絶対に間違いでもないし恥ずかしいことでもない。
押さない、でいいと思う。心底、いいと思う。本当に心の底から。
どう考えたって押すべきじゃないだろう。押さんだろ。
なんならおれも思うもん。
生きてることが大好きだ。執着したい。
欲望と快楽が大好きだ。自分が大好きだ。自分の命が大切だ。
あと自分の頑張りや自己犠牲については、他人に知ってほしい。人知れず苦労したくない、気づいてほしい。加えて、執着はしないけどできればやっぱり褒められたい。
だから押さない。そのスイッチは押さない。
ただきっと、つい押しちゃうんだろうなと思う。
頭がいい人みたいに考えられないから。
そしてやっぱりおれにとって、憧れとか、自己満足とか、そういうものが向かう先は…タイガーマスクの最終回のような…009の6巻のような…うしおととらのジエメイのような…それにはきっと、抗えない。
(逆に言えば、橋下徹やホリエモンや西野亮廣に憧れることはないだろうと思う)
そんなおれだから、きっと、つい、押しちゃうのだ。
さて、とはいえこれはただの妄想だ。
現実に、超常現象なんて起きない。
押すか押さないか、こんなことを判断せざるを得ないときは永久にやってこない。
考えても仕方ないし、いざその時が来たとしても、本当に自分が、今、想像しているように判断し行動するか、合っていると言い切れる自信も、そんなにない。全然普通にビビッて押せないかもしれない。考えた結果、押さないかもしれない。
ただの妄想だ。重要じゃない。
現実は一日一日。少しずつ。そんなドラマもないままに、でも、私は生きる。
生活して。出かけて。働いて。寝て。
ただ生きることを繰り返し、日々を重ねる。
だから思う。
私は私の価値観を全うする。
現れないスイッチを押すことはない。
ただ、そのぶんを、生きる。
日々に滲むように。なんでもない一日にわずか滲むように。
祈りのようだ。
生活と、祈り、それを繰り返す。
正解とか、不正解とかではない。
価値観の話だ。