ユウシの作文

それでも 私は 文章をかくんだっ 自分が生きるために!!

テキトーに生きて、そして死ぬ

いつ頃かは覚えていないが、いつしかずっと、こう思うようになった。
「テキトーに生きて、死ねばいい」

「どう生きるべきか」「こう生きるべきだ」
絶えず考えていた時間が、僕にはあった。
あった、つまり、過去だ。
だけど、今は、思考停止した、というわけではなく

ただ、折り合いがつかなかった。

今ははっきり確信していて。
どんな人間も、どんな人生も、原則として前提として、「無価値」だ。
そもそも人間に限らず、モノだって、コトだって、無価値だ。

ずっと考えていた。ずっと考えても、
「何かには、価値がある」
としてしまうと、折り合いがつかなかった。

つまり、「若くして死ぬ命」に。

「こう生きるべき」なんてことがあるのなら
「これこそが価値」なんてものがあるのなら
生まれてすぐに死んでしまった赤ちゃんは、「べき」の外か。「価値」の外か。
おれにはとても、そうは思えなかった。

そうじゃない。
そもそも全部、価値なんて、ないのだ。

誰からも絶対的な、客観的な、価値なんて、なににもない。
大谷翔平だろうが、10兆ドルだろうが、世界平和だろうが、新薬開発だろうが、
なににも、価値はない。

ただ、誰かが見出すだけ。
価値は、見出すだけ。
それが、共有できるものだったり、できないものだったり、するだけ。

価値、は、私、が、見出している。
ただそれだけだし、それだけでいい。

私たちは集団で、社会で生きているから、もちろんルールは必要だ。
だから、ルールは決めればいい。その方がいい。
でも、それは価値を決めることではない。
この、「ルール」は、「通貨」や、「言葉」に置き換えてもいい。

価値は、私が、勝手に決めればいい。
そんで、たまに、誰かと共有できると、うれしい。

この価値は私が勝手に決めたものだ、と思えれば、誰構うことない、存分に、愛せる。
そして、他者が勝手に決めた他者の価値に、寛容になれる。
競争や比較もいらないのだから。

私のこどもですら、当然、私ではないから
僕が見出す価値に興味がないときも、当たり前にある。
僕とは違うものに価値を見出し、楽しむ。
子育ては、その前提に立って、ただ、提案し、そして願うだけ。
それを超えると、ただの、間違い。
「価値」の認識への、間違い。

私たちは、社会に、時間に、身体に、文化に、関係に
いつも、無意識にも、縛られて、生きる。そして、死ぬ。
それは、いいとか悪いとかではなく、生きるとは、そういうもの。
誰も、自由なんてものは得られないまま、
そんな、成り行きの中で、
「でも、こうだったらいいのにな」とか、
「あ、そうじゃなくてもいいのか」とか、
思ったり、気づいたり、思い出したりしながら
発信したり、行動したり、する。
自由は、いつまでも、ずっと、得られない、けど、感じる。
自由を、感じる。

価値を、見出して、自由を、感じて
そして、楽しい、と感じられれば
愛しい、とか、豊かだ、とか、面白い、とか感じられれば
幸せ、というものの実存は、どうもつかめないけれど
どうやら、幸せを感じている、そう思う。

思い込みで、全然かまわない。
感じるとか、思うとかは、もともと全部思い込みだし
ひとりでここに立ったとき、満足と自己満足は、同じ意味だぜ。

テキトーに生きて、じゅうぶん、いい。
そんで、死ねばいい。
自分がいいと思っていれば、いい。
こう生きるべきとか、これこそ価値とか、押し付けられると、反吐が出るぜ。
クソ食らえ。

テキトーに生きていたい。
大事なことだけ、大事にして。
もちろん、おれが勝手に決めた、おれにとっての、大事なことを。

じゅうぶんじゃないか。
あとは、できれば、できるだけ、運がいいと、ありがたいな。

運よく、生きて、そのうち、死ぬ。
じゃあ、そんときまで、よかったら、よろしくね。

あ、今度、酒でも呑もうか。
それとマンガかロックンロールの話する?