今日、はじめて中学校の卒業式に参加した。
みんなちゃんと座ってえらいなーとか歌、難しそうだなーとか思ってたんだけど、一番、いろいろ思ってしまったのは、卒業生の答辞のスピーチだった。
それは、多くの人にとってとても感動的なスピーチで、彼と一緒の時間を過ごした人や、その周りにいた人からすれば、さらに感動させられるものだったことは間違いなかった。
自分が目指したものや、それにまつわる苦しみ、そのときに支えてくれた仲間、友人、周囲の先生や親といった大人たちへの感謝などを、感情たっぷりに、時に泣きそうな声になりながら伝える姿は、彼の本音で、だからこそ多くの共感できる人たちへの感動となっただろう。
それを聴きながら、ぼくは、さっき証書授与の際、名前は呼ばれたがその場にはいなかった子のことを考えていた。
ぼくはその子を知っている。
そして、ぼく自身のことを思い出していた。
中学生のころ。ほとんど覚えていないが、どうだったのかはなんとなく覚えている。
気の合う友達は少なかった。
やられてやられっぱなしになるような性格ではなかったので、いじめられはしなかったが、おれを仲間はずれにしていた連中は結構いた。
孤独といえば孤独だったし、さびしく感じたこともあったが、大きくいうと、別に構わなかった。
たまたま同じクラスに入れられたからって、友達でも仲間でもないやつ、楽しくないやつと仲良くしても意味がない。
気の合う数人がいればいい。
そしておれにはキャンパーがあった。学校以外の居場所があった。
学校では何の努力もしなかったし、何も目指さなかったし、特に誰にも感謝しなかった。
周囲への感謝に気づくような余裕はなかった。
彼のスピーチにケチをつけるつもりはまったくない。本当にない。
彼は彼の人生を思いっきり生きたのだろうし、その3年間の本音を存分に語ったのだ。
素晴らしいスピーチだったと心から思う。
同時に、そんな彼がなぜ選ばれたのか。それは、彼が学校や大人にとって「こうであってほしい理想的な中学生」だったから選ばれたのだろう、と思う。
そうじゃない子どもがいる。
過去のぼくのように。
ひょっとしたら、今日、式に来ていなかった子のように。
そういう子も、生きている。
たぶん、真剣に、たぶん、答辞の彼と同じだけ。
ぼくは感動のマジョリティの、外側にいた。
でもぼくにも感動はあった。恋もした。
そこがすみっこでも、群れから離れても、けっして強くも美しくもなくても。
その後、高校、大学と進むにつれ、気の合う仲間に出会い、面白いことを見つけ、好きなこと、やりたいことを見つけ、ぼくは、あのころのぼくを、少し離れて見つめられるようになった。
それでもぼくは、忘れないでいようと思った、今日。
「ぼくたち」や「みんな」の中にはいない子たちを。
「ぼく」のことを。
おれだからわかることがある。
今週末はキャンパーだ。
卒業キャンプ。
おれだから語れる言葉で、祝福しよう。
どいつもこいつも、卒業おめでとうだぜ。
卒業ってのは、さようならってこと。
次の場所に行くってこと。
さようならがおめでたいんだ。
花に嵐、どいつもこいつもふっとんで、行っちまえ!