ユウシの作文

それでも 私は 文章をかくんだっ 自分が生きるために!!

ガラス玉

久々に?
取り乱してしまった。
こう、つらくて。

もうすぐ40歳にもなろうというのに惑うばかり。

みっともない、情けない、カッコ悪い、申し訳ない。

強くならねば。ヒーローになりたい。
単純に助けたい。
人を喜ばせたい。

誰かに勝手に期待して、叶わなければつらくなる。
下手したらその人を責めかねない。
そんな精神は、お山にポイだ。
マッターホルンにポイだ。
マッターホルンってどこだろ。
たぶん結構、遠くだ。
大府より、青森より、仁川より遠いだろう。たぶん。
遠くにポイ。
戻ってくんなよ!!!

誰か。もし拾ったら。
傷んだとこだけ切りとって
あとのところは
うん、好きにして
芯のところは
わりと透明なガラス玉みたいな
たぶん。たぶんね。

弱音

精神を病んでいる友人を救う、というのは、非常に、非常にきついことだ。

おれにとって、2回目。
2回目の経験だ。
前にも、あった。違う友達を。救おうと。

わかってる。

魂を削るように救おうとしてはいけない。
それは、なんにもならなかったじゃないか。
何ヶ月も、いや何年も、苦しんだことが、NPOを頼って、一発で解決した。
プロの仕事で支援してもらうことの方がずっと大事だ。
友人としてまとめて全部救うなんてできない。

おれが壊れる。

わかってる。
経験済みだ。

だから、冷たく思われても。
おれはやらない。
おれの日常を変えない。
壊してまで君の元に行かない。
共倒れに、なるだけだから。

それでもつらいんだよ。

誰か助けて、なんて言いたくなるのをこらえてる。
こらえきれないつらさはどうする?

文章を書く。
文章を読む。

ほかに見つからない。あとの方法は誰かを傷つけるかもしれないからな。

本当は誰かを頼りたい。
本当は助けて欲しい。

つらいぜ。
まあ、でもなんとかなるだろ。
自分の強さを信じよう。

つらいぜ。


2011年9月19日の日記。

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「光」

今日は刈谷に行った。
約束を守りに。

ゲンジボタルの幼虫は、カワニナっていう貝しか食べない。
他のものを食えばいいのに、カワニナしか食わないから、生きていけなくなっていく。


この夏、おれは友達を助けたかった。


高校生の頃、みんなは何をしていた?
おれはあの校舎の中で、友達がほしくて、でも浮いていて、
とても不器用で、かっこわるかった。

それでもそんな中で、仲間がいた。
将来のことを不安がることもなく
現実に潰されそうになることもなく
面白いことをいっぱいやった。
バカなことをいっぱいやった。
真剣な遊びをいっぱいやった。
話をして、笑って、煙草を吸って、勝負して、歌って、
騒いで、屋上にのぼって、ケンカして、遊んでいた。

まるで魔法がかかったような時間だった。


15年。
少年はシンデレラじゃなくおっさんになった。
魔法が解けるように、みんな、「生活」の中に。

彼はすべての家族と別れた。

昨夏、きゅうに彼はひとりになって、帰る場所がなくなった。

困っていた。
助けたかった。
魔法の中にいた友達だから。
ただ当たり前に。
おれはおれの守るべきを守りながら、彼も、と。

彼には病気があり、彼は弱かった。
おれよりもずっと不器用で、繊細で、彼には、もう他の誰もいなかった。
行政も、福祉も、中途半端で制度の中に入れない彼に、なにも、なかった。


1年。
弱い彼は、病んで、戻って、を繰り返し、
それでもひとり、生きてきた。
おれにはできないかもしれない。
彼は、おれと対等だ。
おれは、支えてきた。
しかし、もう、ひょっとしてそろそろ限界なのかもしれなかった。

彼も、おれも。


この夏は、おれにとって、やはり、つらい夏だった。
「失った」夏だった。

7月、終わり、夏の日。
生活保護の書類を揃え、ダイソーで印鑑を買い、車を停めた。
そこで、終わった。
何日も前に置いておいた食料が腐臭を放っていた。
彼は、完全に姿を消していて、おれは、彼の残骸を見た。
それからの日々、なにも変わらない彼の車、残骸を、何度も何度も見るだけになった。

死んだかもしれないな。

そう思いながら、何度も。
何度も155号線を走り、何度もあの公園に。
夢の終わりを幻に見て。

 

9/16
刈谷市役所からの留守電
「お伝えしたい事があります」

以前聞いた、「なにかあったら」電話します、という響きには、「悪い方向で」というニュアンスがあったのを、よく覚えていた。
くらっ、とした。

しかしその内容は、つまり、生きていた、ということがわかった、のだ。
嬉しかったさ。それは、もちろん。
そして、今日、会いに行って、待った。
でも、会えなかった、だけ。

おれは拒否された。
「会いたくない」、という、ことだ。


おれは。

していない約束まで守ろうとする。

約束はふたりでするものさ。
おれは、勝手に、守ろうとする。
していない約束を。


おれっていうのが、わからなくなる。
おれは、なんだったのだ。

 

困っているなら
助けたかった。
おまえのためになりたかった。
おまえが笑うのを見たかった。
そしてそれはおれのクスリだ。


おれが俺のクスリを求めたのが、間違いだった、か。
人を助けるということ、
それは、自分は助からなくてもいい、という覚悟がいることなのか。

たくさんのことがあって
それらがすべて
正直に
苦しかった。
つらかった。
寂しかった。
本当に、本当に。

 

この夏はおれに語りかけた。
誰もおれを助けてはくれない。
それが当たり前だ。
その当たり前の上で、人を思え。
大切な人間を、好きな人間を。
ほんとうのやさしさを自分に求めるなら、そう思え。

やさしい人間になりたい。

なら、強くなれ。
ひとりで耐えきれ、飲みきれ、頼るな、期待するな。
なのにこうやって文章を書く。
誰かに伝えようとする、苦しみを、「どうにもならなさ」を。

おれはいったいなんなのだ。


病気に似ている。


このやさしさは
カワニナしか食わないから
本当はおれを思ってくれる人がたくさんいるのに
おれはカワニナしか食わないから
きっと


おれはやさしくなれないのかな


おれも、彼も、あなたも


いつか
やさしさが
いつか羽化して、美しく光るホタルになったら

きれいだろ。

光。

おれは燃え尽きないろうそくになりたい。
人を焼かず、自分を焼かず
いつまでも、いつまでも、その光を灯しつづけられたら

いいのにな。

 

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2012年5月7日の日記。

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「ある光」

月が明るい。
久しぶりに、刈谷総合運動公園に行ってみた。
「彼」の車はそのままで、時は止まっていて、変化はなかった。
開いた窓から雨が吹き込んだのか、車内が少し汚れていた。

生きてるのだろうか。
きっと生きてるのだろうな。

寂しがり屋は、空をよく見上げる。
アイツも同じ月を見ているだろうか。

155号線を走る。
この道を走ると、普段は考えない、ツラかったことを
たくさん
たくさん
思い出す。

去年の夏は本当にツラかったんだ。
なんの癒やしもなかった。
毎日が本当にツラかった。
こういうことを書くのは、不幸自慢みたいでイヤなんだが…
過ぎた今なら言ってもいいんじゃないかと。

ツラかったよ
本当に。

去年の9/19の日記(「光」)を読みなおしてみた。

ああ。そうなんだよ。

愛なんだ。
結局。


光。

満月の光。

照らしておくれよ
一寸先は闇でいいから

いま ここだけを。

彼だけを。

 


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2012年8月28日の日記。

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「天の川」

マスオカの実家近くを走ってる。

昔このへんをよくケッタで走ったな。

タナカくんをケツに乗せて。

廃虚になったラブホテルを探検した。

ナットくんと、授業フケてチンペイを助けに行ったな。

ナカオくんが投げた指輪は、まだ洲原池に沈んでんのかな。

まったくたのしい高校生活だった。

もし、きみがおれと同い年で、あそこにいたら、きっと友達になってた、かな。

遠くの方で、2ストのカン高い音がする。
あれは、マスオカの単車じゃないのかな。

二度と戻らない。

二度と戻らない、一回きりだった。

ただずっと過ぎていく
すべての時が一瞬

いまきみとつなぐ手も
一緒に見上げる星も

過ぎていき、戻らない。


たくさん遊ぼう。


誰になんて思われても、一瞬のきらめきを
集めるように

遊ぼう。

いつまでも、いつまでも、ずっと。

それだけを、願い続け、終わらない時間を
遊び続けよう。

いつまでも、いつまでも、過ぎていく、一瞬、
ずっと、若く、ふしだらに、願い続け、
遊ぼう、一緒に。

ネルソン・マンデラ

今日、職場の新人が誕生日だった。

高校のとき付き合っていた子と同じ誕生日。

彼女も40歳か。元気かな。子どもたちは幸せかな。

それはどうでもいいので、「ネルソン・マンデラと同じ誕生日だね」と話しかけた。

「誰ですか?」

まあ、そうだろうと思ったさ。残念、でもしかたない。

 

つらいとき苦しいときに思い返す人の、ひとり。

ネルソン・マンデラ

アパルトヘイト(差別的な人種隔離政策)に反対し、27年間牢獄にいた。

そして、そののち南アフリカ初の民主的選挙で大統領に選ばれた男。

 

ネルソン・マンデラのことを考えれば、勇気と力がわいてくる。

 

彼は言った。

「成し遂げたことで私を判断するのではなく、失敗して再び立ち上がった回数で判断してほしい」

 

ネルソン・マンデラのことを考えれば、勇気と力がわいてくる。

おれは、なんでもできるはずだ。

あきらめなければ。続けていけば。

 

彼は言った。

「外見は大事だよ。つまり、笑顔がね」

 

ヘラヘラ脱力。

たまに力んで。

 

力を抜いて、脱力して。自然のままに。

勇気と力が必要なときは、こぶしを握る、不自然に。

 

ネルソン・マンデラ、あんただってきっとそうだったろ。

 

続けていこう。逃げずに、でも力尽きずに。

テキトーに生きる

日々思う。
テキトーに生きたいと。
それはどーでもいいってことではなく
山の動物のような
なんというか
雑で
ほどよく
でも生きることが全て、であるかのような
邪念無く
欲望に素直に
人にやさしく
幸せをかみしめるようなことで
つまりテキトーに生きることがベストのような感覚がある
夢がおれたちを見張ってるので
何も心配はいらない。

不思議

スピッツのアルバム「さざなみCD」を聴きながら、皿を洗い、バザーで買ったコーヒーメーカーでアイスコーヒーを淹れる。
いつでも簡単においしいアイスコーヒーが飲めるなんて。
幸せだなあ、夏。

♪恋のフシギ さらにセットミーフリー
過ぎていったモロモロはもういいよ♪

昨日はキャンパーのキャンプをしてた。
楽しかったな。
遊んでばかり、遊んで、食って、寝るばかり。

近所ではイノシシとオートバイの事故があったらしい。
イノシシが死んで横たわっていた。
オートバイの人は大丈夫だろうか。
イノシシの命、人間の命。
亡骸は、今日、市のゴミ収集課が片付けに来るらしい。

昨夜は色々大変だったみたい。
キャンプスタッフの若い子たち。
でも、大きなことにならなくてよかった。
心配した。

フッ、と頭に浮かぶこと。
いつも同じことを思う。
ただひとつ。
「おれは、いつか死ぬんだな」
おれは死ぬ。きみとおなじ。

楽しい時間も、手軽で美味しいアイスコーヒーも、ありふれた重大な悩み事も、かわいい音楽も。
死を待つまでもなく、いつか失う。
病かもしれない、老いかもしれない。
体が今のように動かなくなったら。
耳が聞こえなくなったら。
味を感じられなくなったら。
その時もおれは幸せだと思い続けられるだろうか。
いつまで幸せで居続けられるのだろうか。
それはつまり、いつまで幸せを感じ続けられるのだろうか。
最長でも、死ぬまで。いつかくる、いつか。
それまではきっと、いつも思う、同じことを。

♪恋のフシギ さらにセットミーフリー
過ぎていったモロモロはもういいよ♪

自由でありたいと思う。
その時点で、もう、自由。
おれは行きたい。
どこかへ。
前に進もうなんて言わない
でも、過去以外のどこかへ
前でも後ろでも右でも左でもナナメに行っても
いつか天の上に、または地の底へ

今に恋してる。
夏に恋してる。
何歳になってもまだ変わらない。
体型が変わっても
生活が変わっても
立場が変わっても
変わらないうちに、旅をする。
心の旅。体の旅。

♪恋のフシギ さらにセットミーフリー
過ぎていったモロモロはもういいよ♪

夏だね。
太陽が光ってる。
プールに入ろう。

 

星野源「ドラえもん」に思う。

(だいぶ前、映画「ドラえもん のび太の宝島」公開当時の文章です。ほんのちょっとですが映画ドラえもんのネタバレを含むので注意してください)

ぼくは昔から根が素直というか単純な男でして。
ドラえもん映画「のび太の宝島」を見て面白かったので、すっかり気にいって、星野源が歌う主題歌「ドラえもん」CDを買ったわけです。
そんで何回も何回も聴いているのですが、ふと、みんなこの曲のこと、どう思ってるんだろうな、とtwitterで検索してみると(現代的だろ!)、いろいろな意見がつぶやかれており、いちいち面白かったわけです。
どれもその人の「ただしい見方」ってやつだ。
なので、僕も思ったことを書いてみたいと思います。
もちろん長いです。僕の文章ですからね!!!
この思いはつぶやきには収まらねえんだよっ!!!
えーと、まだ聴いてないって人は、聴いてから読んでください。
ワケわからないと思います。

全体の総評としてですが、まず他者の考察で面白かったのが、tkom_Jackyさんという方が書いてみえた以下のツイート。
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大人ってのは「部外者」のことをさすと思うんですよね。武者小路実篤の「仲良きことは美しきかな」について橋本治さんが、「仲良きことは、楽しい!」だろ、とツッコミを入れていた。当事者は「楽しい」だけなのに、勝手に「美しい」にしちゃうのは部外者。星野源さんの『ドラえもん』は部外者の目線。
----
なるほどというか、それもわかる、という感じ。

そこを踏まえたうえで自分なりに言葉にしてみたんですが、つまりこれは、「星野源の歌」だなと思いました。「星野源からドラえもん(藤子先生)へのラブソング」です。
物語の外にいる星野源、そして私たち。部外者と言えば部外者だ。
だけど部外者、というにはふさわしくないほどの愛。
ファンでもないからよく知らないんですが、きっと星野源さん、ドラえもんや藤子先生が大好きなんでしょうね。めちゃくちゃ伝わりました。
物語の内側にある者の心理に沿った、または描写した歌(旧ドラ映画の武田鉄也の歌をイメージしてもらえばいいかと。あれらもまた大傑作)ではなく、物語を愛するものの視点によるラブソング。
この歌をいいと思うものは、星野源と同じ視点で、いい、と思うのだ。

なお映画冒頭で、のび太が「ドラえもーん!」と叫ぶところで「あ、主題歌くるぞ」と思ったんですが、流れないんですよね。
(OP曲がない、というのは、ドラえもん映画では異質です)
この歌、エンドロールで流れるんです。
それは、よく考えればすごく分かります。だってこの歌は、この映画のOPには向いていない。そして子ども向きとも言いづらい。
いや、すごくいい歌だと思う。素晴らしいポップス。何度も聴きたくなる。メロディもいい。歌詞も後述するが、すごく凝っている。だけど、それはどちらかといえばみんな大人向きだ。
僕は音楽の理屈なんて分からないから感覚的なものだけど、イントロは古っぽい和っぽい雰囲気で、子どもは好みそうだ。四拍子も分かりやすい。でも、その後のメロディや歌唱は子どもには結構難しい。サビの「どどどどどどどどどドラえもん」だって、実はなかなかリズム感がないと歌えない。テレビ版エンディングにも採用されているようで、子どもたちからちょくちょく聴くが、みんなバラバラな歌い方をしている。それはそれで面白いのだが。
歌詞も難しい言葉がわりと多いのと、「大人で今までドラえもんを見ていた人にならわかる」みたいな表現がたくさん。あ、メロディでも、あの間奏の「ぼくドラえもん」なんかまさにそういう感じですね。そこがいいと言えばいいのですが、子どもには分かりづらいでしょう。
ただ、子どもってなにが気に入るかわからないですからね。全然意味なんてわからなくても好きな歌なんてたくさんあります。だからこの歌の場合、歌詞というより、「歌いにくさ」が子ども向けじゃない感じがするのかな。
で、映画のオープニングには全く不向き。エンディングには合う。そんな感じです。

そして歌詞を考察したいと思います。
まず全部、文字で読んでみましょう。

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少しだけ不思議な 普段のお話
指先と机の間 二次元

落ちこぼれた君も 出来すぎあの子も
同じ雲の下で 暮らした次元 そこに四次元

機械だって 涙を流して
震えながら 勇気を叫ぶだろう

だから ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君に会えるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん

中越しの過去と 輝く未来を
赤い血の流れる 今で繋ごう
僕ら繋ごう

拗ねた君も 静かなあの子も
彼の歌も 誰かを救うだろう

だから ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君に会えるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん

台風だって 心を痛めて
愛を込めて さよならするだろう

君が遺したもの 探し続けること
浮かぶ空想から また未来が生まれる

ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君をつくるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん
----
でも本当は歌詞というのはメロディにリズムに乗ってこそのものなので、文字だけで見てもピンときませんね。と言っても仕方ないんで少しずつ見ていきます。

「少しだけ不思議な 普段のお話」
この出だしで藤子ファンは嬉しくなっちゃいます。藤子先生は自分の作品を「SF(すこし・ふしぎ)」と呼んでいました。普段のお話、という歌詞もよくわかる。藤子先生は日常、もしくは日常感覚から逸脱しない世界から生まれる少しの非日常(から生まれるなにか)、まさに少し不思議の世界を描いていましたから。

「指先と机の間 二次元」
指先、って子どもの語彙にはあまりない言葉な気がする。
この歌詞から藤子先生を連想しないホモサピエンスはいるのでしょうか?いやいない。(断言)
指先と机の間のマンガ本を連想してもいいんだぜ。

「落ちこぼれた君も 出来すぎあの子も
同じ雲の下で 暮らした次元 そこに四次元」
のび太出来杉を連想しないホモサピエンスはいるのでしょうか?いやいない。(断言)
出来杉って劇場版にはかなりの確率で登場するんですよね。冒険には行かないけど・・・彼がいたら、彼がひみつ道具を効率よく駆使して解決しちゃうもんね。そりゃそうだ。刃牙で全試合、範馬勇次郎が戦うようなもんだ。勝ちが見えてる勝負なんて面白くもなんともない。
話それたけど、いろんなヤツがいる日常。そこに四次元、のところで、ドラえもんとの出会いを思い浮かべる。いい歌詞じゃねえか。

「機械だって 涙を流して 
震えながら 勇気を叫ぶだろう」
人によると思うけど、なに連想した?ドラえもん
おれは「バギーちゃん」なんだけどってかこの歌詞バギーちゃんしか思い浮かべらんねぇ!「のび太の海底鬼岩城」は僕が生まれて初めて買ってもらったマンガ単行本です。思い入れが半端じゃない。400回くらいは読んだんじゃないかな。ボロボロになりすぎて捨てられました。だからここはバギーちゃんで決定です。異論は認めるが揺るがない。

「だから ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君に会えるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん
これって誰視点なんだと思います?僕は「星野源視点」、「聴いてる人視点」だと思います。
のび太ドラえもんに、ここにきてほしくて一緒に冒険したい。そしてしている。
マンガ読んでるおれも、映画見ているおれも、一緒に冒険したもん。確かにしてた。間違いない。
あとこれ特にめっちゃ個人の感じ方なんだけど、「いつか 時が流れて 必ず辿り着くから 君に会えるよ」の「君」はもちろんドラえもんであると同時に、「藤子先生」を連想してしまって泣けちゃう。ストレートにはそんな歌詞じゃないんだけど、冒頭Aメロから藤子先生を意識させられたからここで藤子先生を連想しちゃうようになってる俺の中では。狙って作ったんなら星野源は天才的俺キラー。

「背中越しの過去と 輝く未来を
赤い血の流れる 今で繋ごう
僕ら繋ごう」
子どもには多分つかみづらい歌詞の部分。
重ねて連想できる。
「おばあちゃんの思い出」でおばあちゃんに背負われていたのび太の過去。「結婚前夜」で描かれたのび太の未来。
今の僕世代の、ドラえもんに夢中だった子どものころと、生活にあふれる今という現実、まだ見ぬ希望に満ちた未来。
ドラえもんの世界を歌っていると同時に僕の世界を歌っている。

「拗ねた君も 静かなあの子も
彼の歌も 誰かを救うだろう」
スネ夫、しずかちゃん、ジャイアンを連想しないホモサピエンスはいるのでしょうか?いやいない。(断言)
同時に「いろいろな個性があるけど、誰もが誰かを救う」とも。

「台風だって 心を痛めて
愛を込めて さよならするだろう」
出たこれ。予告編とかで1番しか聴いてなかったから、CDでここ聴いてボロボロ泣いた。
ドラえもん大好きな人じゃないと、唐突に台風って言われても意味もわからんと思うけど、マンガを、6巻を繰り返し読んだ人なら、誰でも、連想するのは「台風のフー子」以外ありえない。
おれはもうこれ脳のバグかな?って思うくらい、フー子についてはフー子って聞いただけで涙腺開放状態になってしまう。フー子のことを考えたりマンガのコマ思い出したり誰かに聞いただけで感動のスイッチが入ってしまう。病気に近いと自分でも思う。

「君が遺したもの 探し続けること
浮かぶ空想から また未来が生まれる」
もう言わなくてもわかると思うけど、「君」はドラえもんであり藤子先生だ。
どちらにせよ、歌の主体はのび太たちではないのは明白じゃない?
ドラえもんと別れてないもん。
ドラえもんだった場合、すでに大人であるおれが、過去ドラえもんに遺してもらったものを探し…となるし、藤子先生だった場合、藤子先生が遺した…となる。浮かぶ空想から また未来が生まれる、は、藤子先生亡きあとのオリジナル作品のことも連想できる。
そう、藤子先生が描いてないドラえもんが、生まれてるんだよ。

「ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君をつくるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん
君に会えるよ、から君をつくるよ、に。
いつか未来に辿り着き、本当にドラえもんをつくってみせるとも読める。ドラえもんが実在する未来、希望あふれる未来に辿り着きたいんだとも。
だけど、この視点が「星野源、もしくはドラえもん大好きな僕たち」目線とすると、「いつか、時が流れて、藤子先生が立っていた創作の地点に辿り着く、そして新しいドラえもんをつくるよ」とも感じさせる。
そうなると、このサビの部分は連続して「藤子先生亡きあとの今のドラえもん」へのエール、全肯定とも感じられるってわけだ。

僕の主観での星野源の歌詞考察。いかがでしたでしょうか。
考えすぎだよとか思う?
いやね、考えてないの。
感じたんだよ!
そう!
感じたことを一生懸命、文字にしたってだけなんだよ!
ていうか、いいんだ、どんな妄想しても。
自由だ。
そう、星野源もそうなんだよ。
ここが重要なところで。

この歌詞の
「機械だって 涙を流して 
震えながら 勇気を叫ぶだろう」
「台風だって 心を痛めて
愛を込めて さよならするだろう」
これがバギーちゃんとフー子を指しているって事は異論なし確定ってことにしていただきまして。
その上で、ですが、「こんなシーンない」んですよ。
のび太の海底鬼岩城」で、バギーちゃんが涙を流して震えながら勇気を叫ぶシーンなんて、原作にはない。
てんとう虫コミックス6巻で、フー子が心を痛めて愛を込めてさよならするシーンも、ないんです。
でも。
これはバギーちゃんとフー子で間違いないんです。
それしか連想できないんです。
そんなシーンないけど、「バギーとフー子はそうした」んです。
おれにはわかるんだよ!

…何言ってんだこの人、って思うかもしれないけど、わかるだろう?
あなたがドラえもん大好きで、このふたつの話をずいぶん読み込んでいるのなら…共感するかしないかは別として、おれの言ってることが、わかるだろう??

古いマンガの、そして藤子先生のなにが好きかって、「全部描かない所」だ。
当時の制約が生み出した偶然かもしれないけど、藤子先生は、全部描かない。
登場人物の心理を文字にして絵にして全部説明するような下品な真似はしない。
最近のマンガも大好きだ。
でも、描きすぎじゃないの?って思うことは、多々ある。
古いマンガには、「行間」がある。
直接描かれない、コマとコマの間があるんだ。
特に藤子先生はあっさりしている。別れのシーンですら数コマだ。
でも、そこには読むものの心をグッと捉えて放さない余韻がある。
そこに、言ったら、妄想の入る余地が、ちゃんと、とってある。
だから、星野源は妄想できる。無いシーンを歌にしたのは、「わかっててそうした」に違いない。だから、「~するだろう」という語尾なのかもしれない。
涙を流して震えながら勇気を叫ぶバギーちゃんも、心を痛めて愛を込めてさよならするフー子も、彼には見えたのだろう。「彼にはそう見えた」と言うべきかもしれない。
そして、僕にも星野源の歌を通して、それが見えたのだ。
わかるのだ。バギーちゃんやフー子の心が。

この歌は、星野源の、完璧に私的なラブソングだ。
その思いに共感するかどうかは、その人次第だが、おれは、感動した。
グッときてしまった。
そもそも、全ての歌はラブソングと言っていいのかもしれないし、ラブソングってのはどれも私的なもんなのだろう。
それに、共感する人が勝手に共感して感動する、そういうものなのかもしれない。
おれはドラえもんが好きだ。藤子先生が好きだ。
わかるぞ、おれもなんだ!

妄想、という言葉を使った。これは空想という言葉で歌詞に登場する。
「君が遺したもの 探し続けること
浮かぶ空想から また未来が生まれる」
そう、もう生まれているんだ。
藤子先生が描いていないドラえもんが。
一作一作、誰かの愛が、ドラえもんへの愛が、藤子先生への愛が、思いを込めて、力を入れて、生み出している。
藤子先生が描いていない「余白」、そこに確かに見えるドラえもんを、描き出している。
浮かぶ空想から、未来が生まれているんだ。

まったくみんな、ドラえもんが、藤子先生が大好きだね。
天国なんてものがあるんなら…そこのラジオでも、かかっているといい。この曲が。
それは、ぼくにとっても、嬉しいことだ。

https://www.youtube.com/watch?v=oEjDsWU8u0c

おれはいつかジジイになる。きみは、そのとき、ババアだ。

今朝、職場でちょっとした騒ぎがあった。

 

この地域に住む、一人暮らしの高齢者(73歳)の方が運転する車が、職場付近でフラフラッと危険な蛇行運転。

そこに通りかかった地域の方が、車ごと職場の駐車場に保護してくれた。

高齢者の方は、病院に行くところで、運転中、意識はあったが視界が見えなくなってしまったそう。大きな事故にならず、本当によかった。

その後は、体調は悪くなく、意識もしっかりしていたので、救急ではなく警察に連絡し、パトカーで自宅までお帰りいただいた。

途中、本人と話していると、どうやら昔、自動車の営業をしていて、うちの祖父に車を売ったこともあるらしい。世間は狭い。

それはそれとして、高齢者による交通事故の報道がされた印象もあり、「事故をしてしまっては大変ですから、あまり運転されないほうがいいかもしれませんよ」と、声をかけると、「わかってはいるが、しかし独身で身よりもなく、自分で運転しないと通院もできない」と。


改めて、そうだよな・・・と思った。
「免許を返納したほうがいい」「事故したら大変」
そう言うのは簡単だけど、この方の生活はどうなる。

73年。生きてきて。

その中には子どもの時代もあっただろう。

青年の時代もあっただろう。

必死に働いた頃も。恋に悩んだ頃も。

そこで、今、この人の人生を生活を一顧もせず、「他の人に迷惑だから免許返納しな」と、俺には言えない。なんの、代わりの案もないのに。誰も、身寄りがいない生活なのに。

 

俺に何ができるだろうか。
警察の方と帰られてから、市役所の担当課に電話をした。
しかし、市は、高齢者の交通についての支援はないとのこと。
支援計画のうち、担当になるであろう支援センターの連絡先を聞き、連絡をした。
状況を伝え、支援の必要を説明すると、支援センターの具体的なアクションについて教えてくれた。動いてくれるそう。

俺にできるのはとりあえずここまでか。

本当にわずかだ。

でも、支援センターが動いてくれるということで、少し安心した。

普段、子どもや若い世代と関わる仕事をしているので、高齢社会について実感する機会があまりなかったが、今日は、考える日となった。

俺も、君も、いつか年を重ね、「高齢者」になる。
遊んで、恋をして、マンガを読んで、
仕事して、悩んで、ロックンロールを聴いて、その先に。
長生きできたら幸せだ。長生きできない人もいる。
で、長生きできたら、「高齢者」に。
これは、決定している、誰もがそうなる現実の未来。
「みんなが安心して楽しく暮らせる社会」…
言うほど簡単じゃ、ないんだろう。
しかし、俺は俺の力で、それを目指そうと思う。

だって、俺はそうあってほしいからだ。

俺と、君に。
30年後も。50年後も。100年後だって。