ユウシの作文

それでも 私は 文章をかくんだっ 自分が生きるために!!

不思議

スピッツのアルバム「さざなみCD」を聴きながら、皿を洗い、バザーで買ったコーヒーメーカーでアイスコーヒーを淹れる。
いつでも簡単においしいアイスコーヒーが飲めるなんて。
幸せだなあ、夏。

♪恋のフシギ さらにセットミーフリー
過ぎていったモロモロはもういいよ♪

昨日はキャンパーのキャンプをしてた。
楽しかったな。
遊んでばかり、遊んで、食って、寝るばかり。

近所ではイノシシとオートバイの事故があったらしい。
イノシシが死んで横たわっていた。
オートバイの人は大丈夫だろうか。
イノシシの命、人間の命。
亡骸は、今日、市のゴミ収集課が片付けに来るらしい。

昨夜は色々大変だったみたい。
キャンプスタッフの若い子たち。
でも、大きなことにならなくてよかった。
心配した。

フッ、と頭に浮かぶこと。
いつも同じことを思う。
ただひとつ。
「おれは、いつか死ぬんだな」
おれは死ぬ。きみとおなじ。

楽しい時間も、手軽で美味しいアイスコーヒーも、ありふれた重大な悩み事も、かわいい音楽も。
死を待つまでもなく、いつか失う。
病かもしれない、老いかもしれない。
体が今のように動かなくなったら。
耳が聞こえなくなったら。
味を感じられなくなったら。
その時もおれは幸せだと思い続けられるだろうか。
いつまで幸せで居続けられるのだろうか。
それはつまり、いつまで幸せを感じ続けられるのだろうか。
最長でも、死ぬまで。いつかくる、いつか。
それまではきっと、いつも思う、同じことを。

♪恋のフシギ さらにセットミーフリー
過ぎていったモロモロはもういいよ♪

自由でありたいと思う。
その時点で、もう、自由。
おれは行きたい。
どこかへ。
前に進もうなんて言わない
でも、過去以外のどこかへ
前でも後ろでも右でも左でもナナメに行っても
いつか天の上に、または地の底へ

今に恋してる。
夏に恋してる。
何歳になってもまだ変わらない。
体型が変わっても
生活が変わっても
立場が変わっても
変わらないうちに、旅をする。
心の旅。体の旅。

♪恋のフシギ さらにセットミーフリー
過ぎていったモロモロはもういいよ♪

夏だね。
太陽が光ってる。
プールに入ろう。

 

星野源「ドラえもん」に思う。

(だいぶ前、映画「ドラえもん のび太の宝島」公開当時の文章です。ほんのちょっとですが映画ドラえもんのネタバレを含むので注意してください)

ぼくは昔から根が素直というか単純な男でして。
ドラえもん映画「のび太の宝島」を見て面白かったので、すっかり気にいって、星野源が歌う主題歌「ドラえもん」CDを買ったわけです。
そんで何回も何回も聴いているのですが、ふと、みんなこの曲のこと、どう思ってるんだろうな、とtwitterで検索してみると(現代的だろ!)、いろいろな意見がつぶやかれており、いちいち面白かったわけです。
どれもその人の「ただしい見方」ってやつだ。
なので、僕も思ったことを書いてみたいと思います。
もちろん長いです。僕の文章ですからね!!!
この思いはつぶやきには収まらねえんだよっ!!!
えーと、まだ聴いてないって人は、聴いてから読んでください。
ワケわからないと思います。

全体の総評としてですが、まず他者の考察で面白かったのが、tkom_Jackyさんという方が書いてみえた以下のツイート。
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大人ってのは「部外者」のことをさすと思うんですよね。武者小路実篤の「仲良きことは美しきかな」について橋本治さんが、「仲良きことは、楽しい!」だろ、とツッコミを入れていた。当事者は「楽しい」だけなのに、勝手に「美しい」にしちゃうのは部外者。星野源さんの『ドラえもん』は部外者の目線。
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なるほどというか、それもわかる、という感じ。

そこを踏まえたうえで自分なりに言葉にしてみたんですが、つまりこれは、「星野源の歌」だなと思いました。「星野源からドラえもん(藤子先生)へのラブソング」です。
物語の外にいる星野源、そして私たち。部外者と言えば部外者だ。
だけど部外者、というにはふさわしくないほどの愛。
ファンでもないからよく知らないんですが、きっと星野源さん、ドラえもんや藤子先生が大好きなんでしょうね。めちゃくちゃ伝わりました。
物語の内側にある者の心理に沿った、または描写した歌(旧ドラ映画の武田鉄也の歌をイメージしてもらえばいいかと。あれらもまた大傑作)ではなく、物語を愛するものの視点によるラブソング。
この歌をいいと思うものは、星野源と同じ視点で、いい、と思うのだ。

なお映画冒頭で、のび太が「ドラえもーん!」と叫ぶところで「あ、主題歌くるぞ」と思ったんですが、流れないんですよね。
(OP曲がない、というのは、ドラえもん映画では異質です)
この歌、エンドロールで流れるんです。
それは、よく考えればすごく分かります。だってこの歌は、この映画のOPには向いていない。そして子ども向きとも言いづらい。
いや、すごくいい歌だと思う。素晴らしいポップス。何度も聴きたくなる。メロディもいい。歌詞も後述するが、すごく凝っている。だけど、それはどちらかといえばみんな大人向きだ。
僕は音楽の理屈なんて分からないから感覚的なものだけど、イントロは古っぽい和っぽい雰囲気で、子どもは好みそうだ。四拍子も分かりやすい。でも、その後のメロディや歌唱は子どもには結構難しい。サビの「どどどどどどどどどドラえもん」だって、実はなかなかリズム感がないと歌えない。テレビ版エンディングにも採用されているようで、子どもたちからちょくちょく聴くが、みんなバラバラな歌い方をしている。それはそれで面白いのだが。
歌詞も難しい言葉がわりと多いのと、「大人で今までドラえもんを見ていた人にならわかる」みたいな表現がたくさん。あ、メロディでも、あの間奏の「ぼくドラえもん」なんかまさにそういう感じですね。そこがいいと言えばいいのですが、子どもには分かりづらいでしょう。
ただ、子どもってなにが気に入るかわからないですからね。全然意味なんてわからなくても好きな歌なんてたくさんあります。だからこの歌の場合、歌詞というより、「歌いにくさ」が子ども向けじゃない感じがするのかな。
で、映画のオープニングには全く不向き。エンディングには合う。そんな感じです。

そして歌詞を考察したいと思います。
まず全部、文字で読んでみましょう。

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少しだけ不思議な 普段のお話
指先と机の間 二次元

落ちこぼれた君も 出来すぎあの子も
同じ雲の下で 暮らした次元 そこに四次元

機械だって 涙を流して
震えながら 勇気を叫ぶだろう

だから ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君に会えるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん

中越しの過去と 輝く未来を
赤い血の流れる 今で繋ごう
僕ら繋ごう

拗ねた君も 静かなあの子も
彼の歌も 誰かを救うだろう

だから ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君に会えるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん

台風だって 心を痛めて
愛を込めて さよならするだろう

君が遺したもの 探し続けること
浮かぶ空想から また未来が生まれる

ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君をつくるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん
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でも本当は歌詞というのはメロディにリズムに乗ってこそのものなので、文字だけで見てもピンときませんね。と言っても仕方ないんで少しずつ見ていきます。

「少しだけ不思議な 普段のお話」
この出だしで藤子ファンは嬉しくなっちゃいます。藤子先生は自分の作品を「SF(すこし・ふしぎ)」と呼んでいました。普段のお話、という歌詞もよくわかる。藤子先生は日常、もしくは日常感覚から逸脱しない世界から生まれる少しの非日常(から生まれるなにか)、まさに少し不思議の世界を描いていましたから。

「指先と机の間 二次元」
指先、って子どもの語彙にはあまりない言葉な気がする。
この歌詞から藤子先生を連想しないホモサピエンスはいるのでしょうか?いやいない。(断言)
指先と机の間のマンガ本を連想してもいいんだぜ。

「落ちこぼれた君も 出来すぎあの子も
同じ雲の下で 暮らした次元 そこに四次元」
のび太出来杉を連想しないホモサピエンスはいるのでしょうか?いやいない。(断言)
出来杉って劇場版にはかなりの確率で登場するんですよね。冒険には行かないけど・・・彼がいたら、彼がひみつ道具を効率よく駆使して解決しちゃうもんね。そりゃそうだ。刃牙で全試合、範馬勇次郎が戦うようなもんだ。勝ちが見えてる勝負なんて面白くもなんともない。
話それたけど、いろんなヤツがいる日常。そこに四次元、のところで、ドラえもんとの出会いを思い浮かべる。いい歌詞じゃねえか。

「機械だって 涙を流して 
震えながら 勇気を叫ぶだろう」
人によると思うけど、なに連想した?ドラえもん
おれは「バギーちゃん」なんだけどってかこの歌詞バギーちゃんしか思い浮かべらんねぇ!「のび太の海底鬼岩城」は僕が生まれて初めて買ってもらったマンガ単行本です。思い入れが半端じゃない。400回くらいは読んだんじゃないかな。ボロボロになりすぎて捨てられました。だからここはバギーちゃんで決定です。異論は認めるが揺るがない。

「だから ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君に会えるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん
これって誰視点なんだと思います?僕は「星野源視点」、「聴いてる人視点」だと思います。
のび太ドラえもんに、ここにきてほしくて一緒に冒険したい。そしてしている。
マンガ読んでるおれも、映画見ているおれも、一緒に冒険したもん。確かにしてた。間違いない。
あとこれ特にめっちゃ個人の感じ方なんだけど、「いつか 時が流れて 必ず辿り着くから 君に会えるよ」の「君」はもちろんドラえもんであると同時に、「藤子先生」を連想してしまって泣けちゃう。ストレートにはそんな歌詞じゃないんだけど、冒頭Aメロから藤子先生を意識させられたからここで藤子先生を連想しちゃうようになってる俺の中では。狙って作ったんなら星野源は天才的俺キラー。

「背中越しの過去と 輝く未来を
赤い血の流れる 今で繋ごう
僕ら繋ごう」
子どもには多分つかみづらい歌詞の部分。
重ねて連想できる。
「おばあちゃんの思い出」でおばあちゃんに背負われていたのび太の過去。「結婚前夜」で描かれたのび太の未来。
今の僕世代の、ドラえもんに夢中だった子どものころと、生活にあふれる今という現実、まだ見ぬ希望に満ちた未来。
ドラえもんの世界を歌っていると同時に僕の世界を歌っている。

「拗ねた君も 静かなあの子も
彼の歌も 誰かを救うだろう」
スネ夫、しずかちゃん、ジャイアンを連想しないホモサピエンスはいるのでしょうか?いやいない。(断言)
同時に「いろいろな個性があるけど、誰もが誰かを救う」とも。

「台風だって 心を痛めて
愛を込めて さよならするだろう」
出たこれ。予告編とかで1番しか聴いてなかったから、CDでここ聴いてボロボロ泣いた。
ドラえもん大好きな人じゃないと、唐突に台風って言われても意味もわからんと思うけど、マンガを、6巻を繰り返し読んだ人なら、誰でも、連想するのは「台風のフー子」以外ありえない。
おれはもうこれ脳のバグかな?って思うくらい、フー子についてはフー子って聞いただけで涙腺開放状態になってしまう。フー子のことを考えたりマンガのコマ思い出したり誰かに聞いただけで感動のスイッチが入ってしまう。病気に近いと自分でも思う。

「君が遺したもの 探し続けること
浮かぶ空想から また未来が生まれる」
もう言わなくてもわかると思うけど、「君」はドラえもんであり藤子先生だ。
どちらにせよ、歌の主体はのび太たちではないのは明白じゃない?
ドラえもんと別れてないもん。
ドラえもんだった場合、すでに大人であるおれが、過去ドラえもんに遺してもらったものを探し…となるし、藤子先生だった場合、藤子先生が遺した…となる。浮かぶ空想から また未来が生まれる、は、藤子先生亡きあとのオリジナル作品のことも連想できる。
そう、藤子先生が描いてないドラえもんが、生まれてるんだよ。

「ここにおいでよ
一緒に冒険しよう
何者でもなくても 世界を救おう
いつか 時が流れて
必ず辿り着くから
君をつくるよ
どどどどどどどどど
ドラえもん
君に会えるよ、から君をつくるよ、に。
いつか未来に辿り着き、本当にドラえもんをつくってみせるとも読める。ドラえもんが実在する未来、希望あふれる未来に辿り着きたいんだとも。
だけど、この視点が「星野源、もしくはドラえもん大好きな僕たち」目線とすると、「いつか、時が流れて、藤子先生が立っていた創作の地点に辿り着く、そして新しいドラえもんをつくるよ」とも感じさせる。
そうなると、このサビの部分は連続して「藤子先生亡きあとの今のドラえもん」へのエール、全肯定とも感じられるってわけだ。

僕の主観での星野源の歌詞考察。いかがでしたでしょうか。
考えすぎだよとか思う?
いやね、考えてないの。
感じたんだよ!
そう!
感じたことを一生懸命、文字にしたってだけなんだよ!
ていうか、いいんだ、どんな妄想しても。
自由だ。
そう、星野源もそうなんだよ。
ここが重要なところで。

この歌詞の
「機械だって 涙を流して 
震えながら 勇気を叫ぶだろう」
「台風だって 心を痛めて
愛を込めて さよならするだろう」
これがバギーちゃんとフー子を指しているって事は異論なし確定ってことにしていただきまして。
その上で、ですが、「こんなシーンない」んですよ。
のび太の海底鬼岩城」で、バギーちゃんが涙を流して震えながら勇気を叫ぶシーンなんて、原作にはない。
てんとう虫コミックス6巻で、フー子が心を痛めて愛を込めてさよならするシーンも、ないんです。
でも。
これはバギーちゃんとフー子で間違いないんです。
それしか連想できないんです。
そんなシーンないけど、「バギーとフー子はそうした」んです。
おれにはわかるんだよ!

…何言ってんだこの人、って思うかもしれないけど、わかるだろう?
あなたがドラえもん大好きで、このふたつの話をずいぶん読み込んでいるのなら…共感するかしないかは別として、おれの言ってることが、わかるだろう??

古いマンガの、そして藤子先生のなにが好きかって、「全部描かない所」だ。
当時の制約が生み出した偶然かもしれないけど、藤子先生は、全部描かない。
登場人物の心理を文字にして絵にして全部説明するような下品な真似はしない。
最近のマンガも大好きだ。
でも、描きすぎじゃないの?って思うことは、多々ある。
古いマンガには、「行間」がある。
直接描かれない、コマとコマの間があるんだ。
特に藤子先生はあっさりしている。別れのシーンですら数コマだ。
でも、そこには読むものの心をグッと捉えて放さない余韻がある。
そこに、言ったら、妄想の入る余地が、ちゃんと、とってある。
だから、星野源は妄想できる。無いシーンを歌にしたのは、「わかっててそうした」に違いない。だから、「~するだろう」という語尾なのかもしれない。
涙を流して震えながら勇気を叫ぶバギーちゃんも、心を痛めて愛を込めてさよならするフー子も、彼には見えたのだろう。「彼にはそう見えた」と言うべきかもしれない。
そして、僕にも星野源の歌を通して、それが見えたのだ。
わかるのだ。バギーちゃんやフー子の心が。

この歌は、星野源の、完璧に私的なラブソングだ。
その思いに共感するかどうかは、その人次第だが、おれは、感動した。
グッときてしまった。
そもそも、全ての歌はラブソングと言っていいのかもしれないし、ラブソングってのはどれも私的なもんなのだろう。
それに、共感する人が勝手に共感して感動する、そういうものなのかもしれない。
おれはドラえもんが好きだ。藤子先生が好きだ。
わかるぞ、おれもなんだ!

妄想、という言葉を使った。これは空想という言葉で歌詞に登場する。
「君が遺したもの 探し続けること
浮かぶ空想から また未来が生まれる」
そう、もう生まれているんだ。
藤子先生が描いていないドラえもんが。
一作一作、誰かの愛が、ドラえもんへの愛が、藤子先生への愛が、思いを込めて、力を入れて、生み出している。
藤子先生が描いていない「余白」、そこに確かに見えるドラえもんを、描き出している。
浮かぶ空想から、未来が生まれているんだ。

まったくみんな、ドラえもんが、藤子先生が大好きだね。
天国なんてものがあるんなら…そこのラジオでも、かかっているといい。この曲が。
それは、ぼくにとっても、嬉しいことだ。

https://www.youtube.com/watch?v=oEjDsWU8u0c

おれはいつかジジイになる。きみは、そのとき、ババアだ。

今朝、職場でちょっとした騒ぎがあった。

 

この地域に住む、一人暮らしの高齢者(73歳)の方が運転する車が、職場付近でフラフラッと危険な蛇行運転。

そこに通りかかった地域の方が、車ごと職場の駐車場に保護してくれた。

高齢者の方は、病院に行くところで、運転中、意識はあったが視界が見えなくなってしまったそう。大きな事故にならず、本当によかった。

その後は、体調は悪くなく、意識もしっかりしていたので、救急ではなく警察に連絡し、パトカーで自宅までお帰りいただいた。

途中、本人と話していると、どうやら昔、自動車の営業をしていて、うちの祖父に車を売ったこともあるらしい。世間は狭い。

それはそれとして、高齢者による交通事故の報道がされた印象もあり、「事故をしてしまっては大変ですから、あまり運転されないほうがいいかもしれませんよ」と、声をかけると、「わかってはいるが、しかし独身で身よりもなく、自分で運転しないと通院もできない」と。


改めて、そうだよな・・・と思った。
「免許を返納したほうがいい」「事故したら大変」
そう言うのは簡単だけど、この方の生活はどうなる。

73年。生きてきて。

その中には子どもの時代もあっただろう。

青年の時代もあっただろう。

必死に働いた頃も。恋に悩んだ頃も。

そこで、今、この人の人生を生活を一顧もせず、「他の人に迷惑だから免許返納しな」と、俺には言えない。なんの、代わりの案もないのに。誰も、身寄りがいない生活なのに。

 

俺に何ができるだろうか。
警察の方と帰られてから、市役所の担当課に電話をした。
しかし、市は、高齢者の交通についての支援はないとのこと。
支援計画のうち、担当になるであろう支援センターの連絡先を聞き、連絡をした。
状況を伝え、支援の必要を説明すると、支援センターの具体的なアクションについて教えてくれた。動いてくれるそう。

俺にできるのはとりあえずここまでか。

本当にわずかだ。

でも、支援センターが動いてくれるということで、少し安心した。

普段、子どもや若い世代と関わる仕事をしているので、高齢社会について実感する機会があまりなかったが、今日は、考える日となった。

俺も、君も、いつか年を重ね、「高齢者」になる。
遊んで、恋をして、マンガを読んで、
仕事して、悩んで、ロックンロールを聴いて、その先に。
長生きできたら幸せだ。長生きできない人もいる。
で、長生きできたら、「高齢者」に。
これは、決定している、誰もがそうなる現実の未来。
「みんなが安心して楽しく暮らせる社会」…
言うほど簡単じゃ、ないんだろう。
しかし、俺は俺の力で、それを目指そうと思う。

だって、俺はそうあってほしいからだ。

俺と、君に。
30年後も。50年後も。100年後だって。

顔と言葉

毒舌言えるのは知性のある証拠。
おまえらには言えない言葉、ガツンと言ったる!
上から目線、カッコイイ。

そんな風に思ってた頃もあったし、今だって完璧には抜けてない。

でもやっぱだめだよな
口の悪さは性格の悪さ
性格の悪さは顔に出る。

人をバカにする言葉を出せば
人を傷つける
でもそれ以前に、自分をすり減らす。
自分の、品を。
品の無いのは、いやだな。
下品なきみを見たくない。

屈託なく笑うきみの顔が好きだった。
鏡に映る顔も、SNSに載る写真も、それは、作った顔。
他人が見る顔は、自分じゃ見れない顔。

その顔は、どんな顔だろう。

人をバカにする言葉を出す顔は、誰でもみんな不細工。
ブスはいやだね
やさしい顔は、だいたいかわいい。
おれも、そうありたい。

言葉を選べば、顔がつくられる。
メイクより、言葉を。
どうか、大切に。

ゆりかごから介護マンションまで

今週のお題「星に願いを」

 

先日、92歳になる祖父の誕生日を祝いに行ってきた。ケーキを持って。

祖父は介護マンションに住んでいるのだが、そのロビーに笹と短冊があった。

普段子どもたちと接することが多いので、見慣れた願い事は「サッカー選手になりたい」「パティシエになりたい」とかが多い。

3歳児だと、「すべりだいになりたい」とかのシュール系、「ママに会いたい」(数時間後確実に会う)とかのすぐ叶う「今を生きてる」系もおもしろい。

 

介護マンションの願い事は新鮮だったが「中性脂肪」「神経痛」など、願い事の中に普段僕が見ることのない単語が多くてリアルであった。

そんな中にも「世界が平和でいますように」とかがあって。

 

何歳になっても、今を生きている、そんなひとが未来を見ている。

 

そんなのが、なんか、いいなと思った。

「自然派」じゃない。

世の中の「自然派」と呼ばれる人たち。
そう呼ばれない人たちと同じように普通に仲良くしてるし、一緒にいて楽しい人たちもたくさん。
当たり前だけど、嫌いなわけでもない。
(そもそも自然派だから嫌いとか韓国人だから嫌いとか右翼だから嫌いだとかそういうのはない。嫌いなヤツが嫌いだ)

そして僕もご他聞に漏れず、そこそこ、食品とか、まあそういうものへの安全とか、興味はあるし知識もある。
もちろん、自然も好きだ。

でも、なんだか「自然派」と呼ばれる方々と接するたびに「僕とこの方々は、なにかが違う」とも感じていた。

で、夏にガキどもとキャンプしてて、わかった。

俺は「自然派」じゃなく「自然」なんだ、と。

だからなんだ、ってわけじゃないけど
なんかすっきりした。っていうお話しでした。

※「自然派」と「自然」の人の見分け方はわりと簡単です。
落ちてるものを拾って食ってる方が「自然」の人です。

インターネットをうまく使えない、ということ

僕はフローレンスの駒崎さんという方が今まで発信してきたこと全てには賛同できなかったし、反対に思うこともよくあった。
率直に「信用できるか?」と言われたら「そこまでではない」と答えます。

ですが、駒崎さんの主張に賛同することもあるし、考えさせられる、勉強になることもある。

今回の幼児虐待に関するアクション「【拡散希望】もう一人も虐待で死なせたくない。総力をあげた児童虐待対策を求めて署名キャンペーン始めました!」
https://www.komazaki.net/activity/2018/06/post8223/
も、賛同しました。

その後に起こったこれ。

Twitterでの仁藤夢乃さんに関する不正確な情報の拡散のお詫びと経緯」
https://www.komazaki.net/activity/2018/07/post8380/

仁藤さんの文章
https://imidas.jp/kokogaokashii/?article_id=l-72-011-18-06-g559

このことについて、僕とすごく近い考えをされている方の文章を見つけましたので、それを紹介します。

http://usedkenchan.blog63.fc2.com/blog-entry-877.html

この方の主張と僕の思いはほぼ同じです。

で、僕が書きたいのは、このこと自体の是非ではなくて。

駒崎さんや仁藤さんほどの、インターネットに長けているというか…慣れがある、というか、うまく使いこなしているように見える方で
かつ、きちんと理屈立てて物事を考えられる方でも、このような話になってしまうんだなぁと。
(このお二人の感情的な行き違いが、子どもにとっての不利益につながらないことを祈るばかりです)

だからやっぱり、インターネットって難しいんだなぁと。
つくづく思いました。


たとえば「議論」も「批判」も、それ自体が悪いわけじゃない。

でも、インターネットを経由すると、全然、うまくいかなかったり、軋轢や誤解を生む。

なんか、やっぱり、人間はインターネットに対応しきれない存在なんじゃないかと。
こう思うことがよくある。

逆に言うと、インターネット上で「この人はだめな人」と烙印を押されたり
炎上したり
そういうのも、きっと参考にならないんじゃないかなって思う。

会って話したら、友達になれるかも。
友達は無理でも、受け入れることはできるかも。

インターネットには、その人の、本当に一部しか表れないのに
それで全人格が否定されるようなのは、きっと真実とは遠いあり方。

ネットリテラシーっていわれても
なかなか全部は守れないもの。
誰しもが。そして漏れ出した感情はデジタルなデータとしてずっと残る。

対応しきれないなぁ、インターネット。
おれには無理だし、上の二人にとっても。

インターネットを
「うまく使うこと」
これが一番大事、ってことは、よくわかる。
でも、それと同時に
「おれたちはこれをうまく使えない」
ってことも、腹の底から承知しておくことが大事な気がする。

インターネットを、うまく使えないから、失敗をする。
失敗は、するものなんだよな。
おれたち。全員。

自分の失敗に意地を張ったり
他人の失敗を責めすぎたり
しないほうがいい。

今回は、とても、そう思った。