祖父は今日も生きている。
かなしい さびしい 切ない
単純な形容詞ではあらわせないような、おれの今夜、おれの心。
祖父は知性の代表。
僕にとって祖父こそが知性的な人間だった。
90を超えても、読書を欠かさなかった。
祖父は第二次世界大戦を経験し、僕には想像できない痛みを味わいながら生き延びて、戦後リベラル…というか、いわゆる「アカ」になった。
でも、「千の風になって」を聴いて泣いていた。
「永遠の0」を読んで泣いていた。
亡くした友人を想って泣いていた。
戦場に散った友人。特攻に散った友人。僕の想像のつかない祖父の時代、祖父の青春。
SEALDsの本を読んでいて驚いた。
「こういう若者がいるということは大切なことだ」と言った。
しかし保守派の本も買って読んでいた。
「保守の本も読むんだね」と言ったら
「自分とは違う考えの人間の本を読まなければ意味がない」と答えた。
「いまどき、本?」なんて感覚を持っている人がいる。
祖父はパソコンは触れないしスマホも持ってないしインターネットも知らない。
だけど、SNS、Twitter、Facebook、「自分好みの意見ばかりが集まってくる」ような環境を持たなかった。
祖父が本を読む。それはインターネットやSNSでは得られぬ、知性の湧き出す泉をごくごくと飲んでいるようだった。
しかし祖父はユーモアを忘れない。
そして「和」を尊んだ。
誰かを下に見てバカにしたりはしなかった。
時に怒った。感情が迸るときもあった。
旅をしていた。世界中を回っていた。本だけの人ではなかった。歩いていた。
そして忘れない。母が倒れ、祖父と、50歳以上年下の僕と、ふたりで仕事をした一か月あまり。
優しい祖父だった。
そして遠い目をして言った。「人間ってのは、愚かなもんだ」
アイロニカルに。でも、祖父は人間を愛していた。おれは確信している。
たったここ数日で、祖父の認知症が、激しく、進んだようだ。
「祖父の、素の、祖父らしい祖父の姿に接せられるのは、あと短い時間しかないかもしれない」
父が言った。
ここ数日の、意味の分からない言動。まだらになる記憶と意識。
具体的な話はおれの胸を貫く。
融けないつららがいつまでも心臓に刺さっているように。
父も、誰かに話さなければ、心の均衡がとれないのかもしれないと、少し、思った。
おれには現実感がない。
祖父の認知症。
青春を過ごした同期が死んだこと。
心不全で倒れ2日間意識が戻らなかった若い親戚が、さっき意識を取り戻したこと。
ぜんぶ現実感がない。
いま、遠いというほど遠くないどこかから
「ユウシ、生きろ、思いっきり生きろ」
とだけ声が聞こえる。幻聴のような形で、心臓に直接。
おれはおれの不幸を背負って生きている。
もちろんおれの幸せを。
おれひとりの、だれにも渡せないし渡しても持てない、おれのための特注された「一度きり」を。
おれの旅の終着点はどこだ。
知らんが、祖父の場所とは違う。
きっとおれはそこに一人で行く。
祖父も、きっと。
そこに至るまでの道の途中
突然終わるかもしれないし
認知症になるかもしれない
おれが思うのは、わからない未来より、今。ここだ。
今夜はやたらひとりだ。
ぶっ倒れそうなひとり。
いつかひとりで行く未来。
それまでに、やさしい人と
楽しいことを、愛を、快楽を
祖父よ、私はあなたの知性を継げなかった。
でも、あなたを愛している。
会いに行くよ。近いうちに。
会いたいときに、会いたい人に会う。
忙しさや、意地は、ぜんぜん、ポイッ、と、さ。
いつかわたしもひとりでいく。
その前に。